
君の火がゆらめいている
落合由佳
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刊行日 2025/11/25 | 掲載終了日 2025/08/27
ハッシュタグ:#君の火がゆらめいている #NetGalleyJP
内容紹介
// 講談社児童文学新人賞作家、最新作!//
障害のある子のきょうだいである
「きょうだい児」をテーマに、
複雑な心境を描き切った力作。
* * * *
小学六年生の葉澄は、発達障害のある双子の姉・菜々実の通院や学校送迎を日常的に手伝っている。菜々実にも、両親にも笑っていてほしい気持ちは確かにある。けれど、友達と遊びたい日も、ひとりでいたい時も、お母さんと一緒にいたい時も、菜々実の都合が最優先になる。何かを諦めるたび、仕方ないと思う反面、胸の奥にモヤモヤがたまっていく。
そんな中、障害がある子のきょうだいが集まった「きょうだい会」に参加することになった葉澄は、同世代の恵太と出会う。からりとした性格の恵太と仲良くなる葉澄。恵太にも障害を持つ兄がおり、明るい言葉の裏には、複雑な感情がにじんでいた。
葉澄は「きょうだい会」での交流や、かつて仲違いした友達とのやり取りを通じて、自分の未来について考え始める。障害のあるきょうだいのために生きるのが「みんなにとって」幸せなのだろうか、それとも──?
きょうだいだから愛している。
愛しているから、見捨てられない。
きょうだい児が抱える葛藤をまっすぐ描き切った、渾身の力作!
監修:藤木和子
* 目次 *
一章 くすぶり│小学六年生│
二章 焼かれて│中学一年生│
三章 つないで│中学二年生│
四章 信じて │中学三年生│
五章 ゆらめく
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著者/落合由佳(おちあい・ゆか)
1984年、栃木県生まれ。東京都在住。法政大学卒業後、会社勤務などを経て、2016年、バドミントンに打ち込む中学生たちを描いた『マイナス・ヒーロー』で第57回講談社児童文学新人賞佳作に入選。翌年、同タイトルのデビュー作を出版した。他の著書に、『流星と稲妻』『スポーツのおはなし バドミントン まえむきダブルス!』『天の台所』『要の台所』など。
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★★★
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★★
出版情報
ISBN | 9784065414521 |
本体価格 | ¥1,500 (JPY) |
ページ数 | 208 |
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NetGalley会員レビュー

家族に障害のある子どもがいることで
よその子と違う生き方を強いられる「きょうだい児」。
そんな彼らの激しい葛藤が
ダイレクトに突き刺さりました。
友情について語る部分には
大人の私にも気づきがありましたよ。
主人公は双子の姉に知的障害がある少女。
親の期待を背負い、自分を犠牲にしてでも
姉を支えていた彼女が、出会いをきっかけに
生き方を見つめ直していくストーリーです。
家でも学校でも気が抜けないなんて!
これはもう一つのヤングケアラーの物語ですね。
親の関心が自分に向かない寂しさ、
家庭で期待される役割の重さ、
そして世間の無理解といった
幼い肩にのしかかるには過酷すぎる現実に
震えがきました。
主人公の親は療育に一生懸命だったりと
ちゃんとした親なんです。
それでも苦しさはつのるばかりで
なかなか気持ちを解ってもらえない少女。
そんな彼女に共感できる少年が現れ
物語が動いてゆくさまに引き込まれました。
美談に終始しない彼らの心の叫びは
リアルな迫力に満ちていましたよ。
子どものままでいさせてもらえない
「きょうだい児」のつらさを世に訴え
物語の力で現実に働きかける本作は
時代を超えて響く力を持っていると感じました。
困っている誰かの存在に
気づかせてくれる稀有な作品。
一人でも多くの人に届き、
そして、長く愛されてほしいと思います。
(対象年齢は11歳以上かな?)

無理に・・・無理に言葉にしなくていい
かく言う私も 早々に読み終えたものの 書いて消す作業を幾度も繰り返している
知れてよかった すごい やさしくする 思いやり 想像力 私もできることをやっていこうと思う
・・・考えに考えた感想かもしれない
けれど それらが空虚に思えてしまうほど きょうだいに障害児がいる彼等が思料する日々を
「その気持ちわかります」と私は言えなかった
小学生のノートに大きくバツをつけることの想像性の欠落
あいつらと交流したってメリットないしさという不意の本音
思春期特有の照れ隠しのつもりだった?
できないの言い訳 ずるいと思ってた?
彼等には兄弟がいる。遺伝子が稀な塩基配列だった。
そのDNAは小さすぎて見えない。周りとわたしを隔てている壁も透明で見えない。
主人公は、春という字に読み仮名をつけるとしたら「これから」だと語る。
見えないって言い訳 する? これから どうする?

読んでいて胸が締め付けられる感じがしました。思った以上に様々なことを我慢しながら諦めながら、それでも大好きな家族だからと複雑な気持ちで生きていた。
文中にある通り、知ることから始めないと理解してあげられない部分も多々あった。
当事者だけではなく、周りにもケアや配慮が必要。
障害も介護も社会全体で関わって支え合わないといけない。
わかっていたつもりが、全くわかっていなかった。今後に活かしたい。

もし、自分のきょうだいに「障害」があったら、どうだろう。親の関心のほとんどはその子に注がれるし、障害がなく、定型発達の自分は「自立」や「いい子」を求められる。きょうだいだから、もちろん愛情もあるし、助けたい、と思う。でも、自分の自由はどうなるのだろう。障害のあるきょうだいの世話をするために、友だちと気軽に遊びにも行けないし、なんとなく、友だちやクラスメイトから避けられたりする。悪意のあるひどい言葉を投げかけられたりすることもある。自分はこの先、ずっとそのきょうだいの面倒をみて、支えていかなくてはならないのか。自分のやりたいことはいつまで我慢しなくてはならないのだろう。ーそれが「きょうだい児」と呼ばれる子どもたちの苦しみだと、この物語を読んでわかった。葉澄の双子の姉、菜々実は「自閉スペクトラム症」と「知的障害」という障害をもっているため、会話のキャッチボールができなかったり、自分の中での「決まり事」に執着したり、音や光に人一倍弱いため、集合写真を撮る時のフラッシュや、ピアノの音も嫌がったりする。そのため、小学校六年生の時、仲良しの友だちの誕生パーティには「菜々実なしで」誘われた。こうして菜々実がいるせいで、自分は「ひとりぼっち」いや菜々実と「ふたりぼっち」になってしまうのではないか、と涙をにじませる葉澄に、どうにかしてあげたい気持ちが生まれた。でも物語には救いがあった。「つなぎび」というきょうだい児の集まりで再会した恵太、認知症のおばあちゃんの世話をする友だち、「つなぎび」のスタッフなど、周囲には求めれば助けがあり、一人で抱え込まなくてもいい。「きょうだい児」の子どもたちには、どうか限界まで我慢せずに、また世話をしないことで自己否定をすることなく、一度きりの人生を満足いくように生きていって欲しい。

「きょうだい児」って知っていますか?
ここまで「きょうだい児」を掘り下げ、小学生から中学生にいたる心の動きを細やかに描いた作品を読むのは初めてです。綺麗事を並べるのではなく、きょうだい児たちの本音が伝わり胸に突き刺さりました。
学校で色々言われても
きょうだいだから大切で、
きょうだいだから自分は我慢して。
果たしてそれが、障害のない子の幸せと言えるでしょうか。
きょうだいだけがサポート対象ではないし、自分も誰かに頼っていいのだと初めて知る人もいるのではないでしょうか。
自分は障害者じゃないから、きょうだい児じゃないから、と関係ないと思う人もいるかもしれません。
でも、あなた自身も怪我や病気をきっかけに誰かの手を借りなければならないときが来るかもしれません。どうかそんな想像をしながら最後まで読んでみてください。
きっとあなたの心にも火が灯ると思います。どうかその火を心に灯し続けてほしいです。
双子の葉澄は、発達障害のある姉・菜々美の通院や病院の送迎をしています。家業を継ぎ、菜々美とともに働くのが当たり前だと考えています。
そんな葉澄が出会った恵太。
恵太からもらったお守りをきっかけに「きょうだい会」に参加し、将来について考え始めます。
恵太の“おれ、ときどき考えるんだ。生存している人の全員が健常者で、障害者が排除されて成り立つ社会があるとしたらって。そこに豊かさとか発展とか、やさしさはあるんかなって”という言葉を何度も反芻しました。
私自身、足の手術をしてヘルプマークをつけています。杖を蹴られて悲しい思いをしたこともあります。
それでも、さりげなく助けてくれる人がいます。助けられる側に立って初めて気づいたこともたくさんあります。
均一でない社会が当たり前なのではないでしょうか。
助けられることが当たり前ではないけれど、凹凸ある社会だからこそ、いつか自分も助けられる側に立つのだと思えるのではないでしょうか。
これからを生きるあなたへ。
あなたの将来はあなたが決めていい。
あなたが背負い込むことはない。頼れることは大人に頼ってほしい。そう願わずにはいられません。
私には何もできないと、無力感も覚えます。
だからこそ私は彼らの背中を押すのではなく、ただ彼らの決断を肯定し続けたいと思いました

きょうだい児、重い言葉だと思いました。
障害のある子を持つ親のからのメッセージを目にする機会は少なくありませんが、きょうだい目線からのアプローチはあまりないように思います。この作品を読んで、そのことに改めて気づかされました。
きょうだい児である葉澄は、悩み苦しみながらも友達や両親との関わりの中で、自分の生き方を見つけていきます。それに対して、同じきょうだい児である恵太の背負っているものは大きすぎます。おとなとして、このような子どもたちに手を差し伸べるすべはあるのだろうかと、自問自答しながら読みました。

きょうだい児にインタビューをしたノンフィクション物語を何作か読んだことがある。
きょうだい児とは違うが、耳の聞こえない両親をもつ健常者のこども(コーダ)のエッセイを読んだこともある。
そういった作品では、彼らは、すでに「家族に障がい者がいる」という状況を受け入れていて、「こんな感じで大変だったんだすけど、今はこういう風に思っています」と、霧が晴れたような、すっきりした状態で語っていた。
この作品はフィクションであるから、インタビュー記事とは違う。
きょうだい児の葛藤の様子が、現在進行形で語られる。
発達障がい、知的障がいを持つ、双子の姉のせいで友だちと関係に亀裂が入ったり、親からの愛を十分に受けられなかったり。
小学校6年生の子にしてみたら、「なんで、わたしがこんな目に合わなくちゃいけないんだ」という持って行き場のない怒りや悲しみを、持て余してしまうだろう。
葉澄の気持ちが痛いほど伝わってきた。
ある日、菜々美の病院に付き添っていたところ、同じような境遇にある恵太に出会い、きょうだい児のための会「つなぎび」の事を知る。
その出会いをきっかけに、葉澄は少し気持ちが軽くなっていったようだったが、恵太の方は……。
同じような境遇なのに、親や周りの対応、理解のあるなしで、子どもの気持ちが変わってしまうんだな。
最初のうちは葉澄が恵太に出会えてよかったと思っていたけれど、途中からは恵太に葉澄という友達がいてよかった、と思った。
小6から中3までで、葉澄も恵太も、倫ちゃんも、菜々美も、(それに柳沼くんも!)みんなそれぞれに成長していて、うれしくなった。
読み終わって、改めて、『君の火がゆらめいている』というタイトル、いいなあ、と思った。
「火」とは心の中にある良心の「火」なんだよね。
最終章のタイトルが「ゆらめく」で、まだまだ15歳で、これからどうなるかわからないから、ゆらめいてる状態でいいんだよなあ、と。

最近ようやく少し言葉が人口に膾炙してきたように感じる「きょうだい」児のお話。
親だって人間だし、子供から見たら大人だってキャパには限界があるし、
「きょうだい」に同じだけ構うことができなかったり配慮ができなかったりするのも、
仕方がないことだというのは周りから見ていればそれはそうとも思うけれど、
子ども本人の主観としては理解はできても納得はできないのが当然だということを、
「お話」を通してだと「自分勝手」など外野が切り捨てることなく、
その気持ちを自分のものとして「きょうだい」ではない子も受け取ることができるのではないか。
「家族」という舞台の上で「きょうだい」だって「バイプレーヤー」ではない、
ということを感じさせてくれる物語だと思う。